オタクのよろこび語録~ボキャ貧編~

2次元のアイドルを推すオタクが色々やってみる。メイクとファッションが好き。

DEATH RESPECTを聴いたオタクの独り言~左馬刻vs.寂雷編~

 ついにDEATH RESPECTが先行リリースされてしまい副交感神経に異常をきたしたオタクの一人として曲の感想や純粋に思ったことをまとめてみたいと思う。全体の感想を1つの記事にまとめようとすると文字数がえげつないことになってしまうので(書いてる途中で3000字を超えたよ!オタクキモいね!!)今回はそれぞれのチームのリーダーである碧棺左馬刻と神宮寺寂雷について書いてみたよ!文章がくどくなってしまうのを防ぐために断定表現を用いることが多いだろうが、大目に見てほしい。

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■人間味のある左馬刻と全能の「神」神宮寺寂雷
 神宮寺寂雷と碧棺左馬刻の関係性は不思議だが一言で言うなら尊敬と畏怖ではないだろうか。今回の曲を聴いて私は率直に左馬刻からは人間味を感じた一方で神宮寺寂雷からは人間を超越した何かを感じたというのが率直なところ。

 ストーリーの進行の都合上まだ2人が過去にどのような関係にあったのかはわからないが、沸点が低く感情の起伏が激しい左馬刻が「すまねえな、先生。」などと素直に謝罪をしまともに対話をできる相手であることから、彼は神宮寺寂雷に対して他の人物とは違った感情を持っていると分かる。中央区でMad trigger crewと麻天狼が初めて対面したとき、彼はメンバーに神宮寺寂雷に挨拶するように促していることから、彼は神宮寺寂雷に恩義を感じていると言える。一方で普段他の人物に対しては激昂する場面も多くみられるのでそれも彼の1面なのであろうが、神宮寺寂雷に対してだけ見せる義理堅いところもまた彼の真実なのだろう。もしかしたら好戦的に見える彼の本質はもっと穏やかなものなのかもしれない。神宮寺寂雷との絡みがなければただのキレキャラだと思っていたよ。実際にYokohama Walkerでは「ああ本音を言えばしかとしたい」というlyricがあるが、怒りの感情と好戦的な態度は彼が幼いころに虐待を受けて育った中で自分を守るための術だったのかもしれない。そう考えると人格が破綻して見える左馬刻が急に人間味を帯びてくるように思える。今回の最終決戦は彼にとって少しのためらいもなかったと言えば嘘になるだろう。曲の冒頭で「3人まとめてアンタの病院にぶち込んでやる」と言っているが、Buster Bros.との対戦で「テメェの遺言聞かせてみろ」と一郎に発していたのと比べるとかなり配慮を含んでいる。まだ彼の中のRespectは置き去りにされていないのだ。ここら辺が人間臭さを感じるし、碧棺左馬刻という人間の底が見えてくるような気がする。もっとも曲の後半になるにつれて彼も立場というものをすべてかなぐり捨てて本気で神宮寺寂雷を倒しにいっているように感じる。これはもはや私の妄想の域だがラップバトルの最中彼には神宮寺寂雷しか見えておらず、独歩と一二三は意に介していないのかもしれない。神宮寺寂雷とはそれほど左馬刻にとって大きな存在なのだ。そうそう、それから曲中で左馬刻は寂雷のことを「貴様」と呼んでいるが、現在では乱暴な2人称として用いられることが多いものの、貴様という字からわかるように大昔は目上の人に対して尊敬の意を込めて使われるものだったらしい。彼の使う「貴様」の内40%くらいは後者の意味が込められてるといいな。ヒュウ!!!

 一方で問題は神宮寺寂雷である。彼は周囲から「仏のような人間」と言われていて、貧しいものに無償で治療をしてしまうあたり慈悲深い人間のように感じるがその本質は違うもののように感じた。私は周囲の「仏」と認識は惜しいようで違っていて彼を称するには「神」の方が適切だと思う。どうでもいい話私の推しは神宮寺寂雷だが、彼の初登場時から気になるのは自分の興味があるかないかですべての人間をとらえている点だ。人は誰しも自分の興味をもとに人と関係を持つことがあるが、彼の中で彼が興味深いと思うかどうかということが占める割合がいささか大きすぎる。誰にでも優しい人格者のように描写されることの多い彼だが飴村乱数については以前抱いていた興味はなくなりつらく攻撃的な態度で接している。しかし強いヘイトはある意味でその対象への強い関心に由来すると思うので興味がないと一言で片付けてはいけない気がするが。私が思うに彼は自分が興味を失った相手のことは眼中になくなりいらなくなったおもちゃのように扱うだろう。仏は慈悲深く大衆を救うが、神は時に残酷だ。優しいばかりではない。しかし神はその残酷さも悪人のような悪い心持でするのではない、神にとって我々人間は取るに足らない存在であり時折見せる残酷さも暇つぶしの一つに過ぎないのだ。ここでは宗教的な話しをしたいわけではないのでこれ以上の言及は控えさせてもらうが、神宮寺寂雷には彼自身が仕組んだものでないピュアな冷酷さがあると思う。また先ほど碧棺左馬刻の目には先生しか映っていないと書いたが、神宮寺寂雷にはかつてのメンバーであった碧棺左馬刻でさえもMad trigger crewの内の一人に過ぎないのだ。その証拠に(?)左馬刻のlyricでは全体を攻撃するものがなく終始神宮寺寂雷ただ一人を攻撃しているが、神宮寺寂雷は「君らの闇とは次元が違う」と3人ひとまとめに一蹴している。こうして神宮寺寂雷が神格化された経緯には我々オタクが推しに対して幻想を抱くのと同じように、彼もまたヒプノシスの世界で周囲の幻想により祭壇が造られ祀り上げられたことがあるのかもしれない。さらに、曲の冒頭のセリフで「私に届かない」と発言しているが「倒せない」や「勝てない」でもなく「届かない」という表現をしているところに注目してもらいたい。この場合、前提としてそもそも神宮寺寂雷が碧棺左馬刻の上に君臨していなければならない。そう、神宮寺寂雷は端から負ける気がないどころか勝利を確信しているのである。そもそも麻天狼結成の際にもメンバー募集の締め切りが近くなってなお「スキルは置いといて、どこかに私の興味を引くような者はいないのか」と言っているあたり絶対的な自信を持っていることが伺える。彼は伊弉冉一二三と観音坂独歩をチームに誘う際に「一緒に世界を変えないか?」と言っているものの本当は自分の力があれば割とどうにでもなると思っていたりして。これは言い過ぎだけど。他にも指摘している人は多いが「両サイドに破天荒な暴れん坊」と一二三と独歩が声を揃えているあたり3人1組ではなく横に伊弉冉一二三と観音坂独歩を据え、中心に君臨する揺るぎない神宮寺寂雷という構図ができあがっているのが顕著にわかるのではないだろうか。シンジュク以外の3ディビジョンが対等な繋がりを築く中で、シンジュクだけは違い、絶対的な主従関係がある。入間銃兎に「胡散臭い」と揶揄されてもおかしくないのではないだろうか。

 

碧棺左馬刻が神宮寺寂雷に救われたことは確かであろうが、だからといって彼は盲目的に神宮寺寂雷を崇拝するほど愚かな男ではない。だからこそ神宮寺寂雷を「偽善」だと悪態をついたのだ。そして向かってくる左馬刻に対し揺るぎない自信を持って上から見下ろしてくる神宮寺寂雷。両チーム満身創痍の中素晴らしい闘いを繰り広げてくれたことに拍手を送りたいが、これは勝敗の決まる戦いなのだ。私がシンジュクの女である贔屓目もあるだろうが、私の票は揺るぎない自信と盲目的であるが故の強さを見せてくれた麻天狼に入れたいと思う。

 勢いで思ったことを書き連ねたため支離滅裂な文章だと自分でも思うけどまあよしとしよう。私はこういった考察が大好きだから皆の考察を参考にこれからの展開に思いを馳せたいと思う。気が向いたら他のメンバーについても考察してみたい。長々と読んでくれてありがとう。